no.29 すれ違い

Waiting you at HOME (うちで待つ)



 明星が蒼い空に光り輝いている。


 香に言えぬ個人的な依頼をひっそりと終わらせ、吐息をふと漏らす。
 タバコの煙のように見える白い水蒸気が立ち上る気候はまだ初春。

 家に戻るべきか。 
 香が自分に寄せる心配を邪険に追い払わずに居られるか。
 否。

 己の甘さなど、とっくのとうに思い知っている。
 すべきことなど分かりきっている。

 日向の中で微笑む女を、
 朝起きて夜休む日々が幸福だと言える生活に戻す。
 なのに出来ない。
 正義など口が裂けても語る権利が無い汚い自分だからこそ、
 硝煙の薫りが更に嫌悪を増す。
 腹立たしさは自分に。呪詛も自分に。



 朝日が己の影を濃く作り、
 背には総てを白く染め上げる光が照らされる。
 
 止してくれよ。

 太陽に顔を向けられるほど、俺は馬鹿じゃねえ。


 
 光を避けるようにして飛び込んだ路地裏の酒場。
 こびりついた小便の匂いとはびこる黴、
 立ち上る埃は人影を朧にし、
 手を触れるのもはばかられるような油でぬるつくカウンター。

 何も考えないようにひたすら安酒を煽る。
 どんな毒が入っているか分からない、緩慢な死へのスターター。
 紫煙と不快な他人の芳香とアルコールの匂いを自分に焚き染めて
 自分をもっと黒く塗り込めてからでなければ帰れない。

 ねぐら、外敵の襲撃が限りなく限定される安全な場所、
 ひと時の睡眠を得るための場所。
 あとは武器の保管庫…己の財産の全てを貯めこむ場所・・・。



 何で俺、帰れない、とか思っているんだろう。俺の根城なのに。



 背を丸め、通勤の人々に逆らうようにして歩く。
 単一の顔、単一に見える服装、単一に見える社会。

 目を射る光の多さに憂鬱になる。
 身体にまとわりつく暖かい空気も虫の居所を悪くさせる。

 己の住まうビルが視界に入ると、少しホッとする。
 だがそれは誰にも悟られることもないだろう。

 


 玄関の前に立った瞬間、圧倒的な違和感が身体を貫く。



 あるはずのものがない

 いるはずのものがいない

 そこにたちこめているべきかぐわしいかおりが鼻にとどかない



 ゾッとするような予感に囚われて、
 ドアを蹴破る勢いで部屋の中に入る。
 空虚な部屋は死より恐ろしく、
 そこに留まることができない圧迫と焦燥をもたらす。 

 

 香の「おかえりなさい」という言葉が 

 帰宅の喜びと不在の間の懸念に満ちた顔が

 己を待つ挽きたてのコーヒーの薫りが



 自分をどれだけ捉えて離さなかったのかを改めて知る。
 それを喪うことが気づかぬうちにどんなに怖かったかを知る。 
 長い時間が育んだ自分の判断力の弱さが
 今は自分自身の礎になっていることを思い知らされる。

 家、か…
 
 いまは、あいつのいない家は、俺の家じゃないってことだ。
 そろそろ、それをちゃんと受け入れても、いいのかもしれん。
 俺自身の準備が、出来た…。


 「掲示板見てきます。帰りは11時ころ。
  お昼ごはんは一応冷蔵庫にあるよ」

 そっけなくも、完全なる安堵の文章。


 全ての矛盾と誤謬に背を向けて
 俺は太陽の匂いのする暖かで清潔な布団に飛び込んだ。
 あいつが、帰ってくるまで、待っていよう。





 待たれることと、待つ者の居る幸福に、初めて気がついた春の日。







 fin 




 070408


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