no.8 紫煙

simple curiosity



それは素直に興味からだった。


 
穏やかな満足に満ち足りた顔をしながら、食後の一服をする遼。
新聞や書籍に目を通す、まじめな顔の手元で立ち昇る紫煙。
えっちな雑誌をだらしない顔で見ながら、鼻からぶほぉっと出す煙。
何事かを思い、屋上の夜景を見つめながら深く吸い込むシガレット。



いつも、遼の傍にあるもの。



私がいくら煙がケムいと文句を唱えても
吸殻を自分で片付けろ、と不平を垂らしても
そして、周囲に迷惑だから煙草を止めろ、と言っても
馬耳東風、暖簾に腕押し、ぬかにくぎ。



その度に、彼はふっと笑い、
私の言葉を最後まで聞いた後で、どこかに消えてしまう。

 
まるで、「お前より大事なのが煙草だ」と言わんばかりの態度で。


お酒だって煙草だって、
私が遼の身体を心配して小言を言っていることくらい、
多分、彼にはちゃんと伝わっている。
でも、べろんべろんに酔っ払って帰って来るし
煙草の本数が減る気配も無い。



・・・遼が手放すことの無い、煙草ってどんなものなの・・・?



夕食を終え、いそいそと出かける遼の背に向かって、
「飲みすぎ無いでよ!あんたが作ってくるツケ、
そろそろ払いきれなくなってきてるんだからね!」と言葉を投げる。


「へいへーい、リョウちゃんいってきまーっすっと」
 後ろも振り向かず、いつものように出かけていく遼。
 今日はどこのお店かしら?もう・・・!



お風呂に入り、歯を磨き、後は寝るだけ。
遼が好きなコーヒー豆を挽き、
何時帰ってきても出せるように準備をする。
自分用に一杯、マグに薫り高いそれを入れて、テレビの前に陣取る。



・・・妙に、机に放ってある煙草のパッケージが気になる。



煙草を吸わない私にとっては、それがいくらするものなのか、
どんな味なのか、全然想像が付かない。
 

気になって、しまう。
遼が吸うものを、私も一度は、試してみたい。


遼の口元に常に納まる紙巻の乾燥葉。
唇で触れたらどんな感触がするの?
煙を吸い込んだらどんな風になるの?
遼と同じ、感覚を、煙草を通して少しは味わえるのかな?

 
少し後ろめたい気持ちで、
パッケージから一本を取り出し、
彼が良くやるように口に咥え、火を近づける。 



・・・あれれっ?!火、つかない!!なんで?!



先端が灰に変わることなく、ただ黒く周囲の紙が焦げていくだけ。
じたばた。じたばた。どうしてかな?

 
落ち着くために、深く深呼吸をする。
その途端に、赤い熾き火が煙草に灯る。
そして、空気を吸い込んだ同じ強さで、口中に広がる煙の味。
逃がすことが出来ず、深く肺に入れてしまう。



何だか、へん!いがいがする!



むせてしまう。
えずくような咳と共に、煙が口から出てくる。

 
胸元に沈殿する重い何かが、
そのまま脳に上がってくるような、強烈な違和感。
そして、眩暈に似た渦が自分の身体を支配する。
これが、ニコチンの味?タールの効果?



なぜこのようなものを、遼は吸うのだろう。
理解が出来ない。
でもこれで、自分も遼と同じものを、
身に纏ったような、根拠の無い安心感。
傍に居ない遼を、身の内に感じられたら、いいのに。


マグの中身を一口含み、舌の上に残る苦さに似た不味さを
ゆっくりとコーヒーのそれで上書きしていく。


たった一息しか吸わなかったのに、すごく疲れている。
細い煙を立ち昇らせ、嫌いながらもなじんだ香りを放つそれを
ぎゅっと灰皿に押し付け、火を消す。

 
コーヒーだけでは拭いきれない、不快感を身体に残したまま
目を瞑ると、私はそのままゆるりと意識をなくした。






アパートの前にたどり着き、遼は己が身を休める部屋を見上げた。
 
リビングに灯りがある。
遼は香のハンマーを覚悟して、苦笑しながら階段を上る。
 
 
さて、今日はどんな意匠が凝らされていることやら・・・。


致命傷を負わぬよう、若干身体を緊張させながらドアを開けるが
そこには想像していたものは無かった。

 
音を極力立てぬようにして、リビングの扉を開ける。
一瞥で香がしていたことを見抜く。

 
「・・・し慣れねえことしやがって・・・香、風邪引くぞ」


肩に手をやり、揺り動かしても、香は起きない。
横抱きにして抱え上げれば、
香のシャンプーの匂いが、優しく遼の鼻腔に届く。
意識せず、口元に顔が行けば、
立ち昇るブラックコーヒーの薫りの内側にある、苦い煙草の香り。


「・・・おめぇには、この香りは、似合わねえ、よ・・・」


呟きを出してしまうと、
遼はそのまま、香にくちづけする。
香にそぐわぬものを自らの内に取り込むように、優しく、そっと。



そうしてベッドに香を運び、リビングに戻る。
香が吸った、長いままの煙草の吸いさしに、再び火をつける。



音のしないリビングで、
紫煙が白い灰を作り出し、やがて火が消えるまで、
遼はその煙草を深く何度も吸い、
フィルターから口を放すことは無かった。




 
  


 
 
  


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060916



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